徳川〇〇、足利〇〇、〇〇天皇に〇〇上皇。
入試や学校の試験のために暗記しなければいけない歴史上の人物には似たような名前の人が多くて混乱しがちです。
ここでは、そんな似た名前の歴史上の人物をまとめてみました。
覚えておきたい徳川〇〇
江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川将軍家は、1603年に初代・徳川家康が征夷大将軍に就任してから、1867年に第15代・徳川慶喜が大政奉還するまで、264年間にわたる江戸時代を通じて、日本の実質上の支配者でした。
先生
長い期間を権力の座にあり続けた徳川将軍家ですから、高校入試のために絶対に覚えておきたい徳川家の人物もチョッと多めです。 15人いる江戸幕府の歴代将軍のうち、次の5名は必ず覚えておきましょう。
徳川家康(とくがわ いえやす)
- 江戸幕府を開いた人物。
- 1600年に関ヶ原の戦いで石田三成らに勝利し、1603年に征夷大将軍に任命された。
- 1615年に大坂冬の陣にて豊臣氏を滅ぼした。
徳川家光(とくがわ いえみつ)
- 江戸幕府の3代将軍。
- 1635年に参勤交代を制度として定めた(武家諸法度に盛り込まれた)。
- 1639年に鎖国を完成させた。
徳川綱吉(とくがわ つなよし)
- 江戸幕府の5代将軍。
- 動物を極端に愛護することを命じた生類憐みの令を制定。
- 儒学の中でも朱子学を奨励し、湯島聖堂を建てる。
- 質の悪い貨幣を大量に発行したため、物価が上昇する。
徳川吉宗(とくがわ よしむね)
- 江戸幕府の8代将軍。
- 享保の改革の中心人物。
- 庶民の意見を聞くため、投書用の箱である目安箱を設置。
- 裁判の基準書として公事方御定書を制定。
徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)
- 江戸幕府の15代将軍。
- 朝廷に政権を返還(大政奉還)し、これにより朝廷は天皇中心の新政治を行うため、王政復古の大号令を出した。
- 約260年続いた江戸幕府の最後の将軍となった。鎌倉時代から続いた武家政治も終わった。
覚えておきたい足利〇〇
足利尊氏が京都において室町幕府を開いて以来、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれれるまで足利氏が15代にわたってその将軍職を継承しました。
先生
南北朝・戦国と動乱の時代の将軍家であったため、他の歴史上の人物とセットで覚えることが多いのが特徴です。
足利尊氏(あしかが たかうじ)
- 室町幕府の初代将軍。
- 後醍醐天皇を中心としておこった南朝と尊氏がたてた北朝が対立する南北朝の動乱が約60年続いた。
足利義満(あしかが よしみつ)
- 室町幕府の3代将軍。
- 1392年に南北朝の合一を実現した。
- 1404年、明との勘合貿易(日明貿易)を始めた。
- 京都の北山に金閣を建て、能楽(能)を保護した。
足利義政(あしかが よしまさ)
- 室町幕府の8代将軍。
- 京都の東山に銀閣を建てた。
- 後継者問題から応仁の乱がおこる。
足利義昭(あしかが よしあき)
- 室町幕府の15代将軍(最後の将軍)。
- 信長の助けで征夷大将軍に任命されるも、後に対立し、武田信玄や朝倉義景らに呼びかけ信長包囲網を築き上げた。
- 信長により京都を追放される(室町幕府の滅亡)
覚えておきたい北条〇〇
北条政子が源頼朝の妻となったことから鎌倉幕府の創立に尽力し、代々鎌倉幕府執権職を継承していくことになりました。源氏将軍が3代の源実朝で途絶えてからは執権が幕府の事実上の最高責任者となりました。
先生
政子→頼朝の嫁、泰時→御成敗式目、時宗→元寇 とセットで覚えましょう。
北条政子(ほうじょう まさこ)
- 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の妻。
- 頼朝の死後、政子の父、北条時政に実験が移り、その後執権政治が始まった。
- 承久の乱の際に、東国の武士に頼朝の御恩を訴え、結集を呼び掛けた。
北条泰時(ほうじょう やすとき)
- 鎌倉幕府の第3代執権。
- 1232年、御家人に裁判の基準を示すために御成敗式目を定めた。
北条時宗(ほうじょう ときむね)
- 鎌倉幕府の第8代執権。
- モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻(元寇)を退けた。
覚えておきたい〇〇天皇、〇〇上皇
奈良時代~平安時代には政治・祭祀の頂点でしたが、摂関政治・院政・武家の台頭により政治的実権を失っていきました。
先生
時代ごとに変わる天皇家の役割や力の大きさなどに注意して覚えましょう。
推古天皇(すいこ てんのう)
- 聖徳太子を摂政とした。
- 歴代天皇の中では最初の女帝(女性天皇)。また、女性君主は当時の東アジアではまだみられなかった。
天智天皇(てんぢ てんのう)
- 645年に蘇我氏を倒し、天皇中心の中央集権的な仕組みを目指した政治改革(大化の改新)を主導した中大兄皇子が後に天皇に即位。
- 百済救援のためにおこした白村江の戦いでの敗戦後、唐に遣唐使を派遣する一方で、国土防衛の政策の一環として水城や防人を設置した。
- 公地公民制を導入するための土台を築いていった。
天武天皇(てんむ てんのう)
- 天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子を倒し天皇に即位(即位前は大海人皇子)。
- 『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した。
- 「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇と言われる。
聖武天皇(しょうむ てんのう)
- 奈良時代の天皇。
- 仏教の力で国を守ろうと考え、国ごとに国分寺・国分尼寺を、都には東大寺とそこにおさめる大仏を作った。
- 在位中の天平年間を中心に栄えた文化は天平文化とよばれ、唐の文化と仏教の影響が強い華やかな文化だった。
桓武天皇(かんむ てんのう)
- 律令政治の立て直しと、政治を奈良の仏教勢力から切り離すことを目的に、794年、都を平安京(京都)に移した天皇。
- 国司の不正を取り締まり、農民の兵役や労役負担を軽くするなど、地方政治の立て直しを図った。
- 東北地方の蝦夷に対し、坂上田村麻呂を派遣し、朝廷はその勢力を広げた。
白河上皇(しらかわ じょうこう)
- 平安時代(摂関政治の頃)の上皇。
- 藤原氏の勢力をおさえようとして、1086年から院政を行った。
後鳥羽上皇(ごとば じょうこう)
- 鎌倉時代の上皇。
- 朝廷に勢力を取り戻そうと、1221年に承久の乱をおこす。
- 承久の乱は幕府側の勝利となり、上皇は隠岐に流され、京都には六波羅探題が置かれた。
後醍醐天皇(ごだいご てんのう)
- 足利尊氏、新田義貞らの助力により鎌倉幕府を倒して建武新政を実施した。
- 公家重視の政治に足利尊氏が離反。後醍醐天皇は大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立、尊氏らが建てた北朝と対立する南北朝の動乱が約60年続いた。
覚えておきたい藤原〇〇
先生
摂関政治で有名な藤原氏。その全盛期の2人とそんな繁栄の基礎を築いた始祖の名前は必ず覚えましょう。
中臣鎌足(なかとみのかまたり)【藤原鎌足(ふじわらのかまたり)】
- 645年、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに蘇我氏を倒した(大化の改新)
- 臨終に際し(亡くなる寸前に)、天智天皇から藤原の姓をあたえられ、「藤原氏」の始祖となった。
藤原純友(ふじわらのすみとも)
- 関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こした(藤原純友の乱)
藤原道長(ふじわらのみちなが)
- 摂関政治全盛の頃の人。
- 藤原頼通の父。
- 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」
藤原頼通(ふじわらのよりみち)
- 摂関政治全盛の頃の人。
- 藤原道長の息子。
- 浄土信仰に基づき、この世に極楽浄土をあらわそうと、宇治(京都)に平等院鳳凰堂を建てる。
覚えておきたい源〇〇
先生
鎌倉幕府を開いた源頼朝の名はきっと覚えているはず。あとの3人は頼朝について語るときに名前の出てくることの多い3人。資料問題などで使われることがあるので、ヒントとして扱えるように覚えておきましょう。
源義朝(みなもとのよしとも)
- 平安末期の武将で、源頼朝・源義経らの父。
- 保元の乱では平清盛と共に戦功を挙げるが、3年後の平治の乱では清盛とは敵対し敗れる。
源頼朝(みなもとのよりとも)
- 1185年に平氏を滅ぼし、その後守護・地頭の設置を朝廷に認めさせた。
- 1192年に征夷大将軍に任命された人物。
- 鎌倉(神奈川県)に幕府を開き、侍所・問注所・政所を置いた。
源義仲(みなもとのよしなか)
- 平安時代末期の信濃源氏の武将で、木曽義仲の名で知られる。
- 平氏打倒のため挙兵し入京するが、後白河院と対立し、義経の追討を受け、近江(おうみ)国粟津で戦死。
源義経(みなもとのよしつね)
- 平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。
- 頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。
- 平氏滅亡後に頼朝と対立し、奥州藤原氏(藤原秀衡)を頼ったが、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ自刃した。
覚えておきたい平〇〇
先生
名前は知っていても、何をしたのかは意外と知らないのがこの二人。清盛の日宋貿易は必ず覚えましょう。
平将門(たいらのまさかど)
- 「新皇」を自称し、瀬戸内海で藤原純友が乱を起こすのとほぼ同時期に東国の独立を標榜して平将門の乱を起こす。
平清盛(たいらのきよもり)
- 平氏の棟梁。保元の乱でともに活躍した源義朝を平治の乱で破った。
- 1167年、武士の出身では初めて太政大臣となり、一族は多くの荘園を手に入れ、朝廷で高い位についた。
- 宋との貿易(日宋貿易)を盛んにおこなった。